物書堂の5年間 〜App Store5周年によせて

2008年7月10日にApp Storeがオープンして、今日でちょうど5年が経ちました。私たちは、App Storeのオープン初日 “Day One” にアプリをリリースした数少ない国内デベロッパのひとつです。5年前のこの日、私たちは “ウィズダム英和・和英辞典” というアプリをリリースしました。今日は “App Store 5周年” をお祝いしながら、当時から今までを振り返ってみたいと思います。

2008年6月上旬
WWDC 2008

WWDCというAppleの開発者向けのカンファレンスでApp Storeの詳細が発表されました。スタートはEarly July。今では信じられませんが、当時はiPhoneアプリを開発できるデベロッパは、特に日本にはほとんどいませんでした。

私たちは十数年間、プロとしてMacのプログラムだけを書いてきました。それまでiPhoneアプリを作ったことはありませんでしたが、経験のある私たちが率先してやらなければ、iPhoneもApp Storeも日本で盛り上がらないと思いました。当時は、iPhoneなんて一部のMacユーザの間でしか普及しないだろうと言われていたのです。私たちはApple製品向けのソフトウェアしか作れないため、iPhoneに成功してもらわないとその先食べていけませんでした。開発期間は1ヶ月もありませんでしたが、私たちはApp Storeの“Day One”に必ず間に合わせるんだと決意して開発を始めました。

開発を始めるとき、90年代のAppleの開発者向け雑誌に載っていたこの文章を思い出しました。

“パレードが町にやって来たとき、あなたは先頭に追いついてパレードを先導できます。あなた自身のパレードを始めることができるのです。しかし、パレードが通り過ぎるまで待っていたのなら、あなたはいつも象の後ろで片付けをする羽目になるでしょう。”

スマートフォンのような革命的パレードは、エンジニアのキャリアの中で何度も出会えるものではないですよね。

2008年6月中旬〜7月初め
最初の製品の開発

最初はゲームなどの娯楽アプリが多くリリースされると思いました。iPhoneはマルチタッチと加速度センサーの付いた新しいゲーム機として認識している人も多かったように思います。でも私たちは実用的なものしか作れないですし、逆にその実用的な分野でiPhoneの可能性をわかりやすく示せるアプリを作ろうと思いました。

そんな風に考えて、最初に思い浮かんだのが電子辞書アプリでした。過去にMacで開発経験がありましたし、iPhoneさえ持っていれば、どこでも気軽に辞書を引けるというのはiPhoneの利便性を示すうえでとてもいいと思ったのです。

早速、前に勤めていた会社でおつきあいのあった三省堂さんに駆け込んで、英語の辞書をライセンスしてもらいました。これが「ウィズダム英和・和英辞典」です。三省堂さんも当時はあまり期待されていないようでしたが、快く了承していただきました。

それから辞書のデータをiPhoneに収まるように加工して、24日間でなんとかひとつの製品にまとめました。

最初のウィズダムはこんな感じでした。今とは全然違いますね。ひとつの画面で検索結果と内容を表示していました。 なぞってジャンプ® も、用例検索もブックマークもありません。ただ引けるだけの辞書アプリでした。

2008年7月10日
App Store 開店

この日の夜にApp Storeはオープンしました。最初はわずか500個のアプリが並んでいただけでした。物書堂の作ったアプリが初めて世に出た瞬間。うれしかったですね。

今と比べると、オープンしたばかりのApp Storeはこんなにシンプル。日本のデベロッパのアプリは数個あっただけでした。でも、このすぐ後にウィズダムはインストールのトラブルでしばらく販売停止。Appleの人たちと協力しあい、一緒に問題を解決しました。当時は今みたいに簡単にストアから消すこともできず、何度もやり取りしながらマニュアル操作で販売を止めてもらいました。

2008年8月
初めての売上レポート

Appleから最初の売上レポートが届きました。7月分なので実質20日分くらい。いろんな人に聞いても「1,000本いけばいいんじゃない?」と言われていたのに、結果は5,000本!こういう結果を出せる市場なら、参入するデベロッパも増えるに違いないと思いました。

2008年9月〜
iPhone 失速

最初は順調に見えましたが、iPhone 3Gは発売から一ヶ月もすると失速し、 一部の人から「失速は想定通り」と言われてしまう始末でした。アプリもなかなか増えてこない中、私たちも次のタイトルを考えなければなりませんでした。

英和辞典のような売れ筋は、いずれ競争が激しくなりますし、英和辞典だけでは当たり前すぎて、アプリの潜在的な可能性を示すには不十分です。そこで、第二弾として六法のアプリを出すことにしました。「こんなことまでアプリでできるのか!」と思ってもらえるようなタイトルを出すことによって、多くの人に期待してもらえるプラットフォームにしていく必要があると思ったのです。

こうしてでき上がったのが「模範六法」のアプリです。2008年10月に “模範六法 2008 平成20年版”を発売し、コンテンツが毎年更新される度に、新版をリリースしてきました。

次にリリースしたのが、“プチ・ロワイヤル仏和・和仏辞典”というフランス語の辞書アプリです。英語ほどメジャーでない言語の辞書アプリを積極的に投入し、様々な言語を学んでいる方や使っている方にiPhoneをどんどん活用していただきたいと思いました。

プチ・ロワイヤルのリリース以降も、外国語の辞書に力を入れてきました。

英語ウィズダム英和・和英辞典2008年7月
コウビルド英英辞典(米語版)2012年7月
コウビルド英英和辞典(米語版)2012年7月
ウィズダム英和・和英辞典 22012年12月
フランス語プチ・ロワイヤル仏和辞典(第3版)・和仏辞典(第2版)2008年12月
プチ・ロワイヤル仏和辞典(第4版)・和仏辞典(第3版)2011年5月
小学館 ロベール 仏和大辞典2013年5月
ドイツ語アクセス独和辞典2010年6月
アクセス独和・和独辞典2012年8月
イタリア語伊和・和伊中辞典2010年1月
スペイン語西和中辞典・ポケプロ和西辞典2010年12月
ポルトガル語現代ポルトガル語辞典2012年7月
中国語超級クラウン中日・クラウン日中辞典2012年7月
朝鮮語韓日・日韓辞典2012年11月

これからも少しずつ言語を増やしていきたいと思っていますし、大辞典もラインナップに追加していく予定です。

海外のすばらしい作品を日本に紹介したり、 逆に日本のものを海外に紹介したり、海外と関わる仕事は日本にとってとても大切です。私たちはアプリを通して、そういう仕事を目指している方や、すでに海外で飛び回っている方の役に立っていきたいと思っています。

2008年12月
大辞林を発売

2008年12月5日、私たちの最大のヒット製品である“大辞林”を発売しました。大辞林はこれまでに26万本以上ダウンロードされています。

最初にリリースしたウィズダムは、最低限の実用性しか備えていませんでしたが、iPhoneの特徴を生かしたインターフェースによって、コンテンツのもつ魅力をもっと引き出せないかと考えていました。

また、私たちのエンジニアリングの力を見せつけるようなものを作りたいとも思いました。ひとつの作品と呼べるようなものをやってみたかったのです。

25万項目以上ある大辞林のスケールを、革新的なマルチタッチ、強力なグラフィックス、美しいタイポグラフィといったiPhoneのもつ特徴をうまく使って表現しました。

一風変わったインターフェースでしたが、翌年にはAppleのTV CMに採用されたり、グッドデザイン賞と電子出版アワード大賞をいただくなど、自分たちでも驚くほど大きな反響がありました。

大辞林の開発のよって、コンテンツとしかりと向き合い、コンテンツが本来持っている輝きを失うことなく、デジタルの世界でも楽しめるようにすることの大切さを学びました。

2009年3月
学習アプリへの取り組み

そろそろ辞書以外の学習に役立つアプリをリリースする必要があると思い、最初にTOEIC®の学習アプリを作りました。旺文社さんの、“新TOEIC®テスト 英単語・熟語 マスタリー2000”です。

翌年には、“漢検プチドリル5000”という漢検対策アプリもリリースしました。

私たちにはゲーム性のある楽しいものは作れないので、こういう分野はなかなか難しいというのが正直なところです。こつこつと全部をやりきっていただくようなインターフェースですが、TOEICも漢検も多くの方に愛用していただいています。

2009年5月
ウィズダムの作り直し

2008年の終わり頃から参入するデベロッパが増えて、様々な英和辞典アプリが並ぶようになりました。iPhoneプラットフォームの盛り上がりという点では期待通りの流れになってきましたが、 App Storeのオープンと同時にリリースしたウィズダムはどんどん競争力を失っていきました。厳しい競争の世界の始まりです。

ウィズダムの販売本数の推移です。転げ落ちるという表現がぴったりです。私たちのような小さなデベロッパは、もはやこれまでかと思いましたが、昔に読んだ次の文章を思い出し、ウィズダムを一から作り直すことにしました。

“いつの世でも最高の防衛策は、製品の素晴らしさによって、顧客の心をとらえてはなさないようにすることです。”

大辞林はコンテンツの魅力をiPhoneらしいやり方で引き出すことで成功しました。ウィズダムでも同じことをすればいいと思いました。

ウィズダムには見出し語よりも多くの用例が含まれています。これを検索できるようにすれば、実際の使われ方に素早くアクセスできます。そこで生まれたのが“用例検索”です。日本語の訳文も独自に解析することで、日本語からも用例を検索できるようにしたのは画期的でした。出版社さんからお借りしたデータに、自分たちで独自の味付けをしていくことで、どこにもないユニークなものができあがったのです。

大辞林で実現していた、単語をなぞるだけで項目にジャンプする“なぞってジャンプ®”機能もウィズダムにも取り入れました。

完全に書き直したウィズダムはその後少しずつ売上を回復していきました。

ばらつきは大きいですが、書き直したバージョンをリリースしてから回復していきました。今までに累計で15万本以上販売されています。

私たちのような小さなデベロッパが厳しい競争の中で生き抜いていくためには、ユニークでキュートなアプリを作っていく必要があると思います。キュートというのは、いつもiPhoneに入れておきたいと思い続けてもらえるようなアプリです。

ウィズダムはその後もiPadに対応したり、新しいiOSの機能、例えばiCloudに対応したりと、お客さまにずっと安心してお使いいただけるようにバージョンアップを重ねています。次はiOS7への対応ですね。

2011年9月
教育向けアプリへの取り組み

それまでは、大学生から社会人の方を対象としたアプリを作ってきましたが、より若い人たちにもiPhoneやiPod touchを活用してもらうために、学校の勉強に役立つアプリを企画しました。

最初に旺文社さんの全訳古語辞典をリリースしました。

そのすぐ後に、同じ旺文社さんの定番商品である、“英単語ターゲット1900”をアプリにしました。書籍のコンセプトである「一語一義」を大切にしてアプリをデザインしました。また、満員電車で通学する生徒さんでも使いやすいように、リスニングモードをイヤホンのコントローラーで操作できるようにしました。いつもこんな風に、実際に使われるシーンを想像しながらアプリを作っています。

その後、中学生や小学生向けのタイトルもリリースしました。

高校生旺文社 全訳古語辞典(第三版)2011年9月
英単語ターゲット1900(5訂版)2011年11月
英熟語ターゲット1000(3訂版)2012年4月
英熟語ターゲット1000(4訂版)2013年4月
中学生中学英単語ターゲット1800(改訂版)2012年12月
小学生例解学習国語辞典 第九版2013年3月

小中学生向けとなると対象となるユーザが大きく絞られるため、販売本数は伸びませんが、iOSデバイスを教育分野で普及させていくには、このようなサードパーティの取り組みが欠かせないと考えています。

2013年7月10日
これから

おかげさまで、物書堂のアプリは累計で70万本近く販売されました。App Storeの中では異色の高額アプリばかりですが、購入していただいた方には、ずっと安心してお使いいだけるようにしていきたいと思っています。

物書堂のアプリ全体の累計販売本数のグラフです。2009年9月に10万本を超えてからも販売本数を伸ばしてきました。爆発的に売れているiPhoneの累計販売台数はロケットの打ち上げのようなグラフになりますが、私たちはラインナップを充実させながら、ゆっくりとお客さまを増やし続けてきました。


最初は創業メンバー2人だけだった物書堂ですが、今では社員2名を追加した4人で開発をしています。これまでにリリースしたアプリは30を超えていますが、そのほとんどを最新のiOSでも動作するようにメンテナンスしてきました。

価格が高いので、悩みに悩んで購入を決意される方も多くいらっしゃいます。そういう方にも価格以上のメリットを感じていただけるように、改良も続けいています。

物書堂には創業からいままで事務所というものがありません。みんな自宅で仕事をしています。お互いに会うこともめったにありません。週に一度、ビデオチャットで打ち合わせをしますが、基本的に担当したアプリを一人で作っています。たくさんあるアプリをすべてiOS7に対応させるのはとても大変ですが、4人で分担してうまくやっていこうと思います。

事務所を構えて人を増やすことを考えなくもないですが、家族と多くの時間を過ごせるスタイルはなかなかやめられそうにありません。

角川新類語辞典のiPad対応など、いまだに実現できていないこともありますが、iOS7への対応と同時に実現できるように準備をすすめています。長い間お待たせしてしまい本当に申しわけありませんが、もうしばらくお待ちください。

最後に

ウィズダムの発売から5周年のお祝いとして、新版の書籍をベースにした“ウィズダム2”を1,000円で販売するセールを実施します。本日から2013年7月13日(土)までの短い期間ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

これまでの5年間に、物書堂のアプリをお買い上げいただいた皆様ならびにお取引きいただいた出版社の皆様には心より御礼申し上げます。これからも皆様のご期待に沿えるように、しっかりとやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

2013年7月10日 物書堂 代表取締役 廣瀬則仁